英彦山が添田のシンボルなら、気軽に登れる身近な山として町民に親しまれているのが、岩石(がんじゃく)山。
標高454メートルの山頂に立つと、眼下に添田町の全景が広がります。
この山頂の直下にあるのが、岩石城址。古くから伝わる修験道の聖地です。天正15年(1587年)、
宇都宮鎮房が起こした豊前国一揆では、呼応した武将のひとり、佐々木雅樂頭種次が一族七百余人とともに、この岩石城に立てこもりました。
この佐々木一族こそ、小次郎を生んだ家系であるというのが、佐々木小次郎添田出身説の根拠です。
「もともと佐々木一族は、副田庄(添田)の土豪であり、鎮圧されたとは言え、細川藩も、簡単に支配できる状況ではなかったと考えられます」と梶谷さんは背景を説明します。
隠然たる力を持つ佐々木一族を懐柔するための策として、細川藩も初めは小次郎を容認。
しかし藩の支配体制を磐石にするためには、剣術の試合にかこつけてでも、小次郎を排除する必要があった――というのです。
厳流島の決闘において延元が護衛をつけてまで武蔵を保護したのは、武蔵の勝利を確定させ、佐々木一族への支配強化を図ることが目的であった。そう考えれば、武蔵が後年、巌流島の決闘について多くを語らなかった理由も説明できます。
なお武蔵の名誉のために付け加えると、武蔵は試合に隠された陰の狙いを一切知らずに決闘に臨んだといわれています。
「小次郎は彦山の山伏から兵法を学び、自分の一族が支配していた岩石城にちなんで、自らの兵法を“岩流”と命名したと言われています。
このことは天明2年(1782年)の佐々木巌流兵法伝書(英彦山高田家文書)などで伺い知ることができます」と梶谷さん。
武蔵に敗れはしたものの、彦山・岩石城で修行した優れた剣の求道者・小次郎への眼差しは、深い畏敬、尊敬に加えて、郷土の誇りにつながる親しみの念に満ちています。
こんど岩石山に登ったときには、ぜひ「この絶景を小次郎も見ていたのか…」と、思いを馳せてみてください。自分とは何の関係もないと思っていた歴史的剣豪の名が、ぐっと身近に感じられることでしょう。