佐々木小次郎豊前添田説2

小次郎の命を奪ったのは、 宮本武蔵ではなかった?!
「小次郎、敗れたり!」というセリフの後、武蔵に斬られた小次郎が波打ち際で絶命…巌流島の決闘といえば、時代劇でおなじみのあのシーンを思い出す人も多いでしょう。
ところが驚くなかれ、小次郎を死に至らしめたのは、実は武蔵以外の人物だった!と、「沼田家記」に記されているのです。梶谷さんの解説を聞きましょう。
「沼田家記によれば、試合前の取り決めで双方共に弟子は一人も連れてこないことになっていたのに、
約束どおり弟子は一人もこなかった小次郎側に対して、武蔵の弟子たちは来て隠れていた。
そして試合後、小次郎は蘇生したが、武蔵の弟子達が集まって撲殺してしまった… まさに驚くべき記述です」
 注目すべきは、試合後に沼田延元が武蔵を、鉄砲隊の護衛までつけて豊後まで送ったという記述です。
武蔵は当時、義父である宮本無二之助が逗留していた豊前に来て、延元が城代を務めていた門司で二刀兵法の師範となっていました。一方、小次郎は小倉藩の剣術師範という要職にありました。
その小次郎が非業の死を遂げた!報せを聞いた佐々木門下生たちが武蔵討伐に動き出した矢先、延元がいち早く武蔵を逃がした、というわけです。
「この延元の武蔵に対する取扱いは明らかに不自然。当時の細川藩に何らかの事情があったのでしょう」と梶谷さん。
実はこの“何らかの事情”こそ、小次郎添田出身説の根幹にほかなりません。(つづく
添田×小次郎